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合い言葉(1)
2009.01.15.Thursday | 21:04 | comment(0)
阪神大震災
花屋のおばちゃんへ
店主は小学1年生〜六年生まで毎週日曜日は父と花屋に行っていました。そこは今のようにブティクのような花屋なんてなくて、阪急夙川の高架下にあって特売の束売りやなんか並んでいて、アレンジメントなんて見たことない昔の花屋。
ある日曜日に花屋に行くとお店のおばちゃんが「売り物にならないから」と「おまけ」の花をくれた。それが嬉しくて次の日曜日も父に「花屋に行きたい」とせがみ、花を買いに行ったら「おまけ」をまたしてもらった。その日から毎週の午後から父と花屋に行く習慣ができた。
いつも束売りではなく、キーパー(冷蔵庫)の中にある上質の花からその日好きな花を一種類につき一本選ばせてもらって(全部で3千円くらい)毎回「おまけ」もしてもらい、家に帰ると父が家中の花瓶に水を入れて並べてくれた。
それに店主は思うまま気ままに花を生けて好きな所に置く。店主の誰にも邪魔されない時間が終わるのはいつもテレビの「笑てん?」の音楽が流れる頃で、家の中はいつもにぎやかだった。
中学生になると部活動が始まり、父との習慣はなくなった。店主の家から花が消えた頃と同時に母が病気になり、完治するのに15年ほど月日が必要で、いつも家の中は氷がはりつめたような空気でみちていた。
時々は花屋に行った。長い付き合いなのに店主は「花屋のおばちゃん」の名前は知らない、もちろん両親は知っている。知らないことを知ったのは地震の半年後。高架下はつぶれたけども店主はおばちゃんがいないなんて気がつかなかった、それほど当たり前の存在でいなくなる日が来るとは考えたことがなかったから。、両親から「ショックを受けるといけないから」と半年後に教えてもらって知った。自宅で建物の下敷きになり亡くなった事を・・・・
時間が流れていたせいか悲しいという感情もなかった。
ただ、何故かお花の学校に行くようになった。
そして受講中「どうして花屋のおばちゃんではない人に花のこと教えてもらってるんだろう?」といつも思っていた。平凡な花屋のおばちゃんがヨーロピアンスタイルのデザインを教えてくれるなんて実際ないんだけども・・・昔から大きくなったらこの店でバイト(定職ではなく)するんだろうな・・・店主も周知もきっと花屋のおばちゃんでさえ、そう思っていたはず。
だから、新しくなった高架下の(別の花屋さんが入った)アルバイトの紹介を親切な知人からしてもらったとき断った。ダッチスタイルのお洒落な花屋さん、素敵だけど無理だと感じた。
だって・・・キーパーは前はあっちにあったし、おばちゃんのぺちゃんこの座布団があった椅子はこっちにあったと鮮明に記憶しているからね。
お花の学校に行くと、華やかなデザインや海外のフローリストに夢中なって家の中も様々な形のアレンジメントであふれたけども、母は病気のままで家は暗かった。
店主になった頃から母は昔の母に戻り、家は穏やかになった。今は子供の頃に素直に花をみていた時と同じように花を見ている気がする。店主はフラワーデザイナーではなく「お花屋さん」でありたいと思う。誰かの子供時代に花屋が大好きだったとおもってもらえるようになりたい。お店の名前も記憶に残らなくてもいいとさえ思っている。店主の「花屋のおばちゃん」のように・・・
(今の店主はおばちゃんが天国で知ったら驚くのかな?)
category | 花屋店主のひとりごと
